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争いの根源は己の心中に

今日は、8月6日です。
63年前の今日は、広島原爆の日。
そして、3日後の8月9日は、長崎原爆の日。

原爆・戦争の犠牲となった全ての御霊が、心穏やかにありますように。


「やすらかに眠ってください。あやまちは二度と繰り返しませんから」
平和祈念公園の慰霊碑より

被爆地・広島は6日、63回目の原爆の日を迎えた。北京五輪という「平和の祭典」の開幕が2日後に迫る中、核軍縮を巡る国際情勢は依然として厳しい。国内では、原爆症認定についての国の姿勢が問われている。いつ発症するか分からない後障害と原爆体験による心の傷に加え、周囲の無理解と無関心は被爆者を一層苦しめてきた。広島市の秋葉忠利市長は平和宣言で、8月6日を「『こんな思いを他の誰にもさせない』ための決意を新たにする日」と位置づけた。

同市中区の平和記念公園で午前8時から行われた平和記念式典には、過去最多となる55カ国の駐日大使らが参列。核保有国では中国が初参加した。
毎日jp「広島原爆忌:63回目迎え、4万5000人が祈り」より引用

戦争を体験していない私が、戦争とは・・・を語ることはできません。
でも、高校の修学旅行で訪れた長崎と、ちょっとした切欠で訪れた靖国神社では、戦争がどれだけ恐ろしくて、どれだけ醜い争いなのかを知りました。
きっと想像したレベルでは足りないかもしれません。

靖国で、戦争に行った兵士たちの遺書を読みました。

「本当は死にたくない。」
「国の為に死ぬんじゃない。未来の日本の子供たちの為に死ぬんだ」
「自分の死が日本の未来につながるなら、喜んで死にましょう」
「私はこの後靖国に参ります。お母さん、靖国でお会いしましょう。」

"国"という規模で見たときの「お国の為」とは違う、想いの塊を沢山みつけました。

自分が今ここにいることができるのは、自分の先祖たちだけでなく、未来の子供たちのことを(つまり、ひらぎたちや、ひらぎたちの両親たちのことだ)考えて、子供の為・・・未来の為・・・と信じて戦った人のお陰でもあるのだということを確信せずにはいられません。

戦争を知らない人が、戦争を語ることはできないかもしれません。
けれど、「戦争はやめようよ」「核兵器は良くないよ。」と声を上げることはできると思うのです。
それは、"していけないこと"でも"かっこ悪いこと"でもないと私は思います。
もっともっと個人のレベルで頑張れることがあると思うのです。

子供たちのことを考えて戦争で死んでいったのは、絶対に日本だけではありません。
国と国の間の話になれば、もっと醜いことが理由になっているかもしれませんが、その争いに巻き込まれていく"戦士"たちは、誰かの子供であり、誰かの親です。
そういう、個人のレベルになれば、きっと、戦争を望んでいる人は居ませんね。
戦争でしか自分たちを平和に導く術はないと信じている人はいるかもしれませんが、そんな人たちが望んでいるのも、自分たちの生活を平和にしたいが為で、結局目指している未来はみんな同じなのかもしれません。
国を豊かにしたいという政治に関わる人たちの思いも、どこの国も一緒かもしれません。

「自分の大切な人が、幸せに、笑顔でいてくれる環境を作りたい。」
きっと、シンプルにシンプルに、そぎ落としていけば、そういう思いになるような気がするのです。

きれいごとでしょうか。
けれど、その気持ちが対立したとき、争いは起こるように思うのです。
そして、その争いに借り出されるのは、誰かの大切な人たちです。

きっと、争いの根源は、常に自分自身の心の中に存在しています。
どんなに平和を愛する人でも、存在しています。
戦争やテロ・・・争いの原因は、武器があるからではなく、己の心のなかにあるのかもしれません。

道具は道具でしかないのですから。
包丁を料理道具として使うか、人を殺めるために使うのか・・・決めるのは自分です。
武器にするのは、それ自体の存在ではなく使う人間ではないでしょうか。

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意見を対立させて声を荒げるとき
理解してほしくて声を大きく訴えるとき
己の主張を貫こうとするとき
人と自分を比べ、自分が上位に立ちたいと競うとき

小さな争いがそこには起こっています。
誰かがこぶしを振り上げれば、それを防ごうとします。
声を荒げれば、それを抑えようとして声を荒げる人もいます。

満員電車の中だって、混雑した道中ですれ違う時にもいますね。
できる限りのことをして周囲の人たちに不快を与えないように行動する人。
肩や肘でまるでもののようによけて歩く人。

戦争をなくそう。
核兵器を持つのをやめよう。
大切なひとが悲しむのは見たくないよ。
大切なひとを失うのはいやだよ。
平和な地球を作ろうよ。

こういう平和の宣言は、政治に関わるひとたちだけのものだけではありません。
戦争の被害を知っているひとたちだけのものでもありません。
広島や長崎だけのものでもありません。

個人個人のためのものだと思うのです。

自分の心のなかにある、狂気の存在を知り、理性の存在を知ること。
地球上の動物たちのなかでも人間だけが持っている"ココロ"は、もっと上手に使えるのかもしれません。
そんな気がするのです。

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